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15集-作品評3

徐奇芬選  その3

亡き夫の筆跡ゆえに捨てかねて原稿の一枚また(をさ)めをく         高寶雪

夫君今は亡く何時書いたかも分からない原稿を何かの折りに発見した作者はそれを反古にせず愛する夫の書いたものと思へば捨てられず又大切にしまふ作者の夫婦の情の深さに涙が誘はれます。どんなにか相愛の仲であったかとひしひし胸に迫って来ます。

 

世の中は総てが縁の繋がりとふ仏の教へに悩みは和らぐ         江槐邨

数知れない人類の中で何時、何処で誰かに会えるか、何の繋がりができるか予知できません。作者は何時か誰かと難題が発生したのでしょうか。この時は「世の中は総てが縁の繋がり」という仏の教えを反芻して悩みが和らいだようで、作者の達観した人格に敬意を表わします。

 

「生きている」とふ喜びに八十才爺のバイク走らす秋空の下       黄華浥

毎月の歌会に台北とは程遠い三峡からバイクで出席なさる作者、そして会の後には巧みなハーモニカで皆をリードして色々ななつかしい歌を唱はせてくれる作者の元気で明朗な姿が目の前にちらついて来ます。最近軽い中風でしばらくお姿が見えず会後の余興もなくなり淋しい限りです。

一日も早く先の様に明るいお声で皆をリードして楽しい歌壇になります様お祈り申し上げます。

 

五十年無常の月日人待たず友の名も顔も遠きクラス会       黄閨秀

十年ひと昔と言はれて来た言葉はもうあまり聞かれませんが五十年は五つの昔になりますのでもうほど遠い昔になります。若い時は一年でも長いと思って居たのに少女だった私達はこの五昔で老媼に変身しました。卒業して散りちりばらばらになった級友が五十年後に再会した時の場面はどう想像したらいいでしょう。顔と名を合わせる事が出来なくお互いに変り果てた現在に五十年の無情を痛感した作者は私達をも代表して詠んで居る様です。人生の無常は自然の成り行きで誰も逃れる事は出来ません。

 

公園にて消えし老人何処に行く児童あつまる公園の中          黄女辛花

公園は大抵広々として木蔭あり、或る所には児童たちの遊ぶブランコや滑り台のある所もあります。だから子供たちの一番多く集る遊び場であり、年寄り達が時間をつぶす所でもあります。作者はこの公園の生態に詳しくなじみの老人も居たに違いない。毎日変らず子供達で賑わう公園でよく見かけた老人が何時の間にか見えなくなった、何処へ行っただろうと作者は詠んでいますが、或いはもう行くべき所へ行ったのであろうとも思っていると思います。「子供と老人」年齢のかけ離れた世代の淡い哀しみがよみとれます。

 

亡き母の作りし椅子の古ぼけて坐る人なく日々我の拭く         黄振聲

在りし日の母が皺みた手でコツコツと釘を打って作り上げた椅子を見てはその時の母を思い出す作者の心情が痛いほど察せられます。年がたち母上は亡くなって母の手作りの椅子も古くなって誰も坐らなくなったけれども、作者は母を偲ぶ時当時の様子を思い出して、日々拭いてきれいにして母への供養にもなると思っています。少し淋しいけれど心の温まる情を誘われました。

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